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2007/11/20

無防備=無責任

無防備平和条例:札幌市が署名数確定、直接請求が成立 /北海道

平和念仏もここに極まれり、だな。
無防備地区宣言は国がするものなので自治体が勝手にすることはできないという政府見解がある以上(それがジュネーブ条約と照らし合わせて正しい解釈かどうかは議論の余地があるにしても)、国会議員に陳情するのが筋ではないのかねぇ。

しかしよくわからんなぁ。

無防備地区宣言は紛争の当事者が相手の当事者に対して行うものなので、必然的に署名した人たちは、札幌市が戦争の当事者になるという事態を想定していることになる。(政府が機能していない場合には地区が自主的に宣言できるけど)
ついでに言うと「紛争の当事者」は紛争が発生しない限り該当者がないので、無防備地域宣言は平時には行えない。

そんなに戦争がしたいのか、札幌市民ww

さらにいえば、無防備地区宣言はある意味最後の手段で、しかも殺し合いをしている相手の良心に任せるという超ハイリスクなギャンブルなので、平時から想定する選択肢としては下の下だ。

・紛争が起こらないようにする外交能力と軍事力の整備
・万が一紛争に巻き込まれた場合にきちんと解決する外交能力と軍事力の運用

こうした努力こそがまず為されるべきなのであって、いきなり「無防備地区でーす」なんてのは秩序に対する責任の放棄でしかない。
ましてや紛争というからには隣近所が相手になる場合が大半な訳で、(考えてもみて欲しい。我が国が例えばボツワナやハンガリーとどうやって『紛争』するのか)我が国の隣近所といえば中国、韓国、北朝鮮、ロシアである。
歴史を見れば判ることだが、こいつら揃いも揃って「国際法を守らない」ことにかけては天下一品のご立派な国ばかりなんだなこれが。よりにもよってこいつら相手に「無防備地区宣言」なんかで安全が担保されると思うこと自体が甘っちょろすぎると思うけどな。

平和念仏、もうそろそろお役御免でいいんでない??


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コメント

自由とは、自己の意思の自由である。
自己に意思がなくては、自由にも意味がない。
日本人には、意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には時制はなく、未来時制もない。

ボランティアとは、自由意思の人である。
我が国の志願で出てくる人とは、どこが違うか。
「ボランティア活動を強制してはいけない」と言ってその普及を反対する人がいることからしても、我が国においては、意思そのものの把握が不十分でることがわかる。

自主・独立 (independent) とは、英米人が子供を褒めていうときの言葉である。
自分が必要とするものは、自分自身の才覚により手に入れるのが大人の態度である。
自分の欲するものを大きな口をあけながら他人にピーピーとねだるのは、雛鳥の態度である。自分がまだ雛鳥の段階であれば、これは仕方のないことである。
独立に必要な軍備を他国にピーピーとねだる国民も子供じみた態度であることに変わりない。自国がまだ未熟な段階であれば、これは仕方のないことである。

意思のない人たちが自由意思の大切さを語ることも難しく、意思決定を行うこともまた難しい。
ともすれば、意思の自由は恣意の自由 (自由のはき違え) と間違えられ、意思決定はどこまでも先送りにされている。

「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という内容であるが、その決意を裏付けるのに十分な自己の力を示すことがないのであれば、その高邁な文言もまた空理空論以外の何ものでもない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


投稿: noga | 2011/01/10 07:09

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